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2018年08月05日

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創業者 森川はつい その想いを継ぐ

森川はついは、福井市森田地区(森川レース旧工場と自宅の所在地)に生まれました。時代背景からもかなり厳しい環境で育ったのではないかと思われます。
はついは稀にみる才女で人望も厚く地区内では男勝りのリーダー的存在であったと、親族や当時の事を知る近所のおばあさんも話しています。
県内外に友人を多数持ち、事あるごとに招いてはもてなし、持ち前の着物姿で一人で海外旅行までする様な当時からするとかなりたくましいハイカラな女性であった様です。
そんな はついが自宅横で森川レースの前身となる繊維工場の創業を始めたのが昭和34年の事でした。
その後、京都の友人から当時としてはかなり珍しいレースの話が飛び込みます。はついはまず、娘であるゆう子を京都に修行に出します。青春時代を京都で過ごしたゆう子は昭和38年帰郷と同時に結婚し、これをきっかけにレース工場に本格転換したのです。
写真左から はつい、嘉子、ゆう子 女系の森川家 継承三世代が揃っている希少な写真です。
その後「ガチャ萬」と言われ、ガチャッと編めば萬札が出てくる様だ♪・・と言われたバブル期を迎える事になります。アメリカを中心とした新自由主義、金融資本主義、お金がお金を生むといわれた異常といってもいい時代。日本はレースの世界的産地となり技術革新と生産体制の強化と効率化、そして流通の分業化が進みました。
「つくれるけど売れない(販売出来ない)」でも大丈夫。朝から晩まで真面目に頑張れば何事でも何とかなるそんな感じではなかったでしょうか。
リーマンショック前後の金融バブル崩壊で終焉を迎え、経済の世界地図が変わるのと同時にレース生産拠点が中国、アジア各国に広がっていきました。
日本では製造工場が次々廃業に追い込まれる中、工場を自宅横地から工業地帯に移し、従来のアパレル向けアウターレースウェア用生地にこだわり、最新高速編機の導入を試みた森川レース…世界のレース生地製造について行く為に決断しました。
新旧の編機を同時に稼働させた1年8ヶ月の間、思いのほか厳しい経営を通して感じているのは「動かしてみた者しか分からないだろう」事が見えているということ。百年に一度といわれる経済構造の変化の中、会社をより強くする絶好のチャンスでもあります。第二次世界大戦後の数年間、日本は大きな混乱に陥りました。明治維新の時も、平安時代から鎌倉時代に移った時もそうでした。そういう大きなパラダイムシフト(その時代に支配的な思考方法の転換)の時には必ず経済が混乱すると経済評論家が言っています。そうです必然的に起こっている事なので会社を取り巻く環境のせいにするのではなく、“ならどうしたらいいのか”を考えるのが経営者だと思います。
金融資本主義に基づく旧来型の理論がまかり通っていた時代と変わらず、とにかく安いものを作って生き残る方法で価格競争を今もなお続けるレース業界のサプライチェーンに疑問を抱かずにはいられません。海外では真似出来ないいかに付加価値の高いものをこの日本でつくり続けることを今一番に考えるべきです。
何かを変える事は勇気がいることだ、でも変わる事を恐れてはいけない。と勇気ある創業者が言ってくれているようです。
                                森川レース三代目
                                     森川 英樹

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